インタビュー「静人と自分の成長の証」

ハッピーエンドのつもりなんです。

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天童さんには典型的な長篇作家というイメージがあります。その大長篇を読者が熱狂的に読んだのは、登場人物の人生を深く掘り下げたからではないでしょうか。今回はほんの一瞬の描写で、その人生を切り取って不足がありません。

天童

いくつもの長篇を書いたことで作家としての筋肉がついたということでしょうか。長々と書き込まなくても、わずかな描写でその人物の出生から最期までが見えてくるように描くことが、ようやくできてきたのかなと思います。

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例えば、バイク事故で亡くなったアメリカ人のトビーという人物が描かれているのはほんの数ページに過ぎませんが、その中で彼の人生を感じることができる。なぜか、書いていない部分まで読者に伝わってきます。

天童

トビーの話は半日で書くことができました。登場人物がアジア系の人が多かったので、静人も欧米人に出会うことだってあるだろうと思っていたら、彼のエピソードが浮かんできたんです。アメリカからやってきたトビーを通して日本の地方の共同体を象徴的に描くこともできましたし、それを原稿用紙五~六枚で表現できたという醍醐味(だいごみ)を味わいましたね。

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クライマックスは一篇の恋愛小説となっていきます。ヒロインの池之内遥香(いけのうちはるか)にはモデルはいるのでしょうか。

天童

トビーもそうですが、特にモデルはいません。むしろ、彼らのほうから僕の前に現われてきたという感じでしょうか。静人がどういう女性にに魅(ひ)かれるだろうかと考えたときに、自然と立ち現われてきたんです。そして僕自身が遥香の人生を生きてみようとすると、彼女のキャラクターが立ち上がってきました。

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二人の恋は一般的にはハッピーエンドとはいえない結末を迎えます。

天童

自分としてはハッピーエンドのつもりなんですけどね(笑)。確かに、二人が結ばれて幸せに暮らしました、というようなハッピーエンドではありませんが、二人の先にはぼんやり光みたいな、宮沢賢治のいう「幸い」みたいなものが見えるのではないかと。

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幸福でなく「幸い」という言葉は面白いですね。

天童

恋愛が成就するか否かにかかわらず、お互いの関係性の中で到達することのできる一段高い人間としてのレベルというものがあると思います。そこに「幸い」というものがあるのではないでしょうか。

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そのあたりに、ただのいい話と文学の違いがあるのかもしれませんね。

天童

そこが文芸としての矜持(きょうじ)ではないでしょうか。芸術としての高みを目指すという意識は必要だと思います。絵画や音楽は言葉を使えない不自由さと戦っています。一方、文学は言葉という強力な武器を持っているのですから、それを使ってどこまで人生の深さを掘り下げられるかが大切です。

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悼む人』『静人日記』と大作を二つ書き上げられましたが、次にあたためていらっしゃるものはありますか。

天童

悼む人』で語り得なかったもの、語り残したものを『静人日記』によって語り得たと思っているので、次はテーマというよりも人々の顔、唯一性を描いていきたいと思っています。具体的な人間の相貌(そうぼう)を一つ一つ追ってみようと。その先に何か待っているように感じます。