作品紹介

購入

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大正時代、東北の寒村に芸術家たちが創ったユートピア「唯腕(いわん)村」。1997年3月、村の後継者・東一(といち)はこの村で美少女マヤと出会った。マヤは北田という謎の人物の「娘」として、この村に流れ着いたのだった。自らの王国に囚われた男と、国と国の狭間からこぼれ落ちた女は、愛し合い憎み合い、運命を交錯させる。過疎、高齢化、農業破綻、食品偽装、外国人妻、脱北者、国境……東アジアの片隅の日本をこの十数年間に襲った波は、いやおうなくふたりを呑み込んでいく。ユートピアはいつしかディストピアへ。今の日本のありのままの姿を、著者が5年の歳月をかけて描き尽くした渾身の長編小説!

定価:各1650円(税込) 判型:四六判上製カバー装

登場人物紹介

登場人物相関図です。羅我和子、ホア、メイ以外には簡単な説明がついています。名前をクリックしてください。なお、文中内の年齢表記は、1997年のものです。

著者プロフィール

桐野夏生(きりの・なつお)

江戸川乱歩賞受賞でデビュー後、1998年『OUT』で日本推理作家協会賞受賞。『OUT』は映画化・テレビドラマ化され話題となる。99年の『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞、04年『残虐記』で柴田錬三郎賞、05年『魂萌え!』で婦人公論文芸賞、08年『東京島』で谷崎潤一郎賞、09年『女神記』で紫式部文学賞受賞、10年『ナニカアル』で島清恋愛文学賞、11年読売文学賞小説賞受賞。『OUT』は日本人作家として初めて米国の文学賞エドガー賞の候補になる。海外での翻訳も多数。

スペシャルコンテンツ

著者インタビュー

本の話 2月号より

佐々木

『ポリティコン』は、二〇〇七年八月から週刊文春で始まった連載と、それを引き継ぐ形で別册文藝春秋で連載された「アポカルプシス」が融合されてできています。改めて、そもそもの執筆動機を教えてもらえませんか。

桐野

もともとは、地球上のどこかに「国家」を作り、そこに政治難民や国籍が欲しい人達が流入してきたらどうなるかという物語の構想があったんです。その後、それを「民営」でやってみたらどうなるかと、いろいろ考え始めました。つまり、クレジットカードで国籍を買う。国という箍(たが)が外れたとき、人は一体どうなるのかと考えて、うまくまとまらないうちに書きだしてみたら、ものすごく小さい共同体「唯腕(いわん)村」の話になったのです(笑)。結局それは人間の欲望と共同体が拮抗する話でした。
いまから九十年程前に、彫刻家の高浪素峰(たかなみそほう)と小説家の羅我誠(らがまこと)が理想社会の建設を目的としてつくった唯腕村。素峰の孫・高浪東一(といち)と、この村に漂流してきたマヤという少女が本作品の主人公になる。

著者インタビュー

佐々木

唯腕村は、もともとは高い理想を掲げてつくられたユートピアであったはずなのに、やがて人は生きていくうちに、どうしても自ら理念を裏切るようなことをしてしまう。これは、どんな共同体でも、国家や社会でも起きることだと思います。唯腕村は、まさにその縮図なんですね。その意味でも、『ポリティコン』は、『東京島』と裏表というか、対になるイメージを受けました。『東京島』は無人島に流れ着いて、そこでグロテスクなコミューンができるという話でしたね。

桐野

『東京島』の場合は、島に流されて集まった人間たちの、やむを得ないコミュニティですね。唯腕村の場合は掲げられた理想に賛同して集まるコミューンなので、その差はもちろんあります。しかし共通していることは、共同体が崩れる時は、家族ができる時だということです。親密な人間関係が生まれると理念が崩れる。『東京島』の場合は、極小の棲み分けを、女という異物とワタナベという嫌われ者、外国人が壊していきました。

佐々木

『東京島』に限らず、連載の期間に刊行された作品(『女神記』『IN』『ナニカアル』『優しいおとな』)の全ての要素が、『ポリティコン』に入っていると感じられます。

桐野

タイトルも構想も二〇〇五年には出来上がっていましたから、すべての作品に影響は及んでいます。

著者インタビュー

佐々木

遂に真打というか、太い幹が現われた。

桐野

しかし、書いている時は、大きなものを掴みきれない苛立ちがありました。中朝国境に取材に行って肉眼で国境を見たり、サパティスタのようなメキシコのゲリラ組織の資料も読んだりと、いろいろな取材をしました。生身の人間には、境界などないわけです。しかし、厳然と入れない国があり、入れば自由を奪われ拘束されてしまう国があるし、失敗国家もある。一方、日本の片田舎では東アジアの人たちが集まって共同で暮らしているという状況もある。じゃ、国家って何だろう、と。こういう面白い時代を、何とか小説の世界に閉じ込めたいと苦しんできました。

佐々木

読み始めた時は、ある種の群像劇になっていくと思ったんです。しかし、物語はやがて東一とマヤに収斂(しゅうれん)していきますね。読み終わってみると、唯腕村というある村の興亡の話であると同時に、一組の男と女の物語でもあったということが、濃厚にわかります。特に、東一という人物のキャラクターが非常に複雑というか、すごく魅力的なんですよね。

著者インタビュー

桐野

ユートピアというより、自分だけの王国をつくりたい男というイメージはありました。しかし日本に住んでいるから、過疎化、高齢化の影響は免れず、なかなか思うようにならないジレンマがある。彼は若くて綺麗な男女が行き交う自由恋愛の盛んな国に君臨したいという勝手な欲望があるのです。が、もちろんうまくいかない。でも、村を離れて東京へ行けば、何も持たないただの田舎者なわけです。失望して村に帰ってくれば、年寄りに責められる。本当に行き場のない無一文の男。欲望のまったく満たされない男が、一気に発火するような感じを書きたかった。だから、第一部では東一をねちっこく書いていきました。
そうしたら、週刊誌連載だったので、マヤについて書くスペースがなくなってしまったんです。マヤという女性は、はぐれた人物ですね。東一は、日本国籍のほかに、いわば「唯腕村国籍」があります。しかし、父に捨てられ母は行方不明になり、都市を漂流しているマヤは、国と国の間からこぼれ落ちた何もない少女です。マヤの側の虚無や空洞を示したかったので、書くのが後にならざるを得ませんでした。

佐々木

桐野さんはいつもそうですが、執筆のプロセスがこの小説の独特の形に反映されている。週刊誌連載が第一部ですよね。第一部は東一の視点から書かれていて、第二部になると視点はマヤに移ります。第一部の終わりで東一は村の運営で様々な失敗をしますが、第二部では、唯腕村は人気が出てきて、ユートピアとしては成功の道を進んでいく。しかし、それは直接描かれなくて、常にマヤが見聞きするものとして出て来る。このコントラストがすごく面白い。

著者インタビュー

桐野

東一は生き残りとアイデンティティをかけて、必死に格闘しているのですが、はぐれ者のマヤからすると、東一のように「二重国籍」を持っている男のやっていることは滑稽としか見えないのです。

佐々木

東一は自分は唯腕村の嫡子だということに終始拘(こだわ)っているし、囚われてもいて、結局それで生きていくしかない。

桐野

唯腕村人というのが、彼のアイデンティティですから。

佐々木

一方、マヤは自分が何人かさえも、最後までよくわからない。男女のある種の越えがたい溝、男にとって女は謎だし、女にとっては男の欲望が謎だというコントラストは、桐野さんの作品には通奏低音のようにありますが、それに加えて今回は、ネーションやアイデンティティの問題も重ね合わせられている。第一部と第二部で視点をはっきりと分けたことで、東一とマヤが互いに相手のことがわからない感じを両方に反射させて読めるところも刺激的でした。

桐野

そう言って頂けると嬉しいです。いつもは、起きていることを細かに互いが照射していくような手法、例えば、各章ごとにマヤの章とか東一の章とか、他の登場人物の章などを書いて、立体的に回転させてきました。今回は思い切って一人の人物を描写し続けました。東一の話が面白くて、止めることができなかったんです。東一が体現する理想郷の限界と、グロテスクさに。

著者インタビュー

佐々木

東一って、ものすごく卑小で幼稚な人間ですよね。

桐野

はい、そうです。魂の小さな人間です。私の好きなタイプですね(笑)。

佐々木

この卑小で幼稚な人間が、巨大な悪になるとか、人として成長するわけでなく、卑小で幼稚なままで国王になっていく。

桐野

しかも、最後にはアダムとイブになる。

佐々木

それがすごい。ある種のダーティーヒーローだと思うんです。人工的な国家をつくる従来のタイプの小説では、主人公は必ず共同体を背負って、最後は国家と戦うような構図になりますよね。東一はそうは絶対にならないキャラクターですね。

桐野

せいぜい、唯腕村の理事長止まり。

佐々木

権力志向とは全然違っている。東一は村に移住してきたホアという外国人女性との間に子供ができた時、マヤのことが好きだから悩むけど、結局、父親になる。そのあとさらに二人も子供をつくっている。そういう意味では、自分の所帯をつくることで安心するような人間だし、それがそのまま唯腕村にも意思として拡大されている。

著者インタビュー

桐野

ホアとは愛がないから、唯腕村に拡大できるのでしょうね。愛があったら、二人だけでいたいとか、いろんな欲望が出てくる。もし、途中でマヤと恋仲になったら、村を出て行ったと思いますよ。東京に行って二人で暮らすでしょうね。

佐々木

東一の唯腕村に対する異常なこだわりは、マヤに対する強い恋心と釣り合いがとれているんですね。

桐野

共同体の理念と個人の愛は共存できないということですね。

佐々木

単行本ではプロローグとしてマヤの話から始まるのも、効果的だと思いました。第一部で東一視点の物語がずっと描かれていても、マヤはいったい何を考えているのかという読み手の興味が持続する。マヤも実はかなり複雑なキャラクターで、単にアイデンティティがなくてさびしいから何かを求めているだけではなく、妙なバイタリティーがある。

桐野

連載時とは違いますが、いきなり前に、マヤの謎めいた状況を出すことによって、小さな唯腕村で汲々と悩む東一の滑稽さや切実さが浮き彫りになったと思います。

佐々木

東一とマヤの他にも魅力的な人物が数多く出てきます。例えば、マヤを唯腕村に連れてきた北田という人物です。彼はマヤの父親代わりとして村に入り込んで、東一の手伝いを始める。いわば東一の庇護者みたいな存在になるのですが、結局、最後まで何者だかわからないんですよね。

著者インタビュー

桐野

東一に自分の理想を見ているかもしれないし、偽装を続けるために、安易におだてているだけかもしれない。その意味では、得体の知れない気持ち悪い人物です。ただ、私は白黒つけがたい、善悪がわからない、そんな薄気味悪い中間地点にいるような人が、好きなんですね。最近、善悪だけでなく、物事をわかりやすくしようという傾向が文学でも強いと思いますが、私はそれに乗りたくないんです。人はそんなに簡単に分けることができないし、差異は常にある。

佐々木

桐野さんの作品には、広いアジアの中で、日本とは違う場所に生きる人間たちの、日本人とは決定的に違ったダイナミズムやバイタリティーに対する興味というかベクトルが一貫してありますよね。

桐野

ええ、『ポリティコン』も、東北の小さな村を舞台にしながら、東アジアで起きていることを描いているんだと思いました。小説は一九九七年から始まりますが、最初から意図したのではなく、食糧問題、難民問題、貧困格差など、この十年間に東アジアの国々が直面している問題を取り上げざるを得なかったと思います。あらゆることが東北地方の唯腕村にも影響を与えているんです。ベクトルを向けているというより、向こうから入ってくる感じです。

佐々木

そういう意味で、この作品は『東京島』と対になる形で、桐野夏生の「日本論」を書いたものだと思います。

桐野

いや、論じたわけではありませんが(笑)、日本に生きる我々の物語として読んでもらえれば嬉しいですね。

取材記

 恐怖の実体験をしたことがあった。五年前の早春、「ポリティコン」の中朝国境取材の時のことだ。二人の編集者と私の三人は、まず韓国の仁川港から中国の丹東に客船で入った。丹東は、鴨緑江を挟んで北朝鮮の新義州と対しているから、中国側から北朝鮮を眺め、鴨緑江の川幅が最も狭くなる場所も探して見に行った。さらに吉林省の図們まで北上し、零下十五度の中、豆満江の対岸にある北朝鮮を見物したのである。
 私たちは、面白い取材だと昂奮していた。ほんの数メートルの川幅しかない場所で、まるで見せ物のように、平然と酒や菓子を受け取りに来る北朝鮮兵士。国境見物の観光客目当てにうろつく孤児。凍った大河、豆満江。巨大な金日成の顔。北朝鮮側の禿げ山。すべてに圧倒されていた。
 だが、ガイドたちの様子がおかしい。私たちを監視し、自由行動をさせないのだ。そして、延吉の韓国系ホテルで奇妙なことがあった。明らかにガラガラなのに、ホテル側は並びの部屋がないと言うのだ。結局、同じフロアではあるが、三人は遠く離れた部屋を宛われた。一人は非常階段前、もう一人は反対の端の従業員用エレベーターの前、そしてもう一人は中央のエレベーター前。
 他の二人の部屋に行くには、真っ暗な「くの字」に折れた長い廊下を歩かねばならない。廊下を歩いていると、突然ドアが開いて誰かが現れそうで怖かった。抗議しても、「空いてない」の一点張りで埒が明かない。その夜、男性編集者の部屋には頼みもしないマッサージ嬢が現れ、私の部屋のカーテンを開けると、向かい側の建物の数室で灯りが消えた。

韓国の仁川から国境の街・丹東へフェリーで向かう。

鴨緑江にかかる断橋。向こう岸は北朝鮮。

取材記

 幸い、拉致も暴力も起きずに無事に帰国したが、なにがしかの悪意や作為を感じたのは事実だった。昨年、アメリカ人の女性ジャーナリストが同じ図們で騙され、北朝鮮側に引きずり込まれた事件があったことを思えば、やはり危険な旅だったと思う。
 その時の生々しい恐怖が、「ポリティコン」に、黒い影を与えているのは間違いない。それが恐怖の正体なのだろうと思いつつも、やはり私のヴィジョンは散乱し続けているし、的確な言葉は見当たらないのだった。すると、八年間ものソ連徒刑体験を持つ石原吉郎の詩文集にこんな言葉を見付けた。
「あるときかたわらの日本人が、思わず『あさましい』と口走るのを聞いたとき、あやうく私は、『あたりまえのことを言うな』とどなるところであった。あさましい状態を、『あさましい』という言葉がもはや追いきれなくなるとき、言葉は私たちを『見放す』のである」
「男と男が陰湿に憎みあった時期を、私は生涯忘れないだろう。それは恥辱そのものである」
 ああ、解答など安易に見付かるはずもないのだ。無力で、誰も幸せにできず、真実の周辺をぐるぐると巡る小さな話しか書けなかったとしても、それはそれで仕方ない。私は「言葉でもはや追いきれなくなる」ことを書くつもりだったのだから。「恥辱」を書かねばならないのだから。今やっと、幻視行そのものが小説の仕事なのだと認識したところである。その行き着く先を早く見たい。(オール讀物 2010年5月号「幻視行」より抜粋)

朝鮮族が多く住む延吉から北朝鮮をを望む。

延吉の名物料理だとガイドに案内され、「補身湯」を全員で食す。

ポリティコン

桐野夏生 著

「理想郷」に生れて「絶望郷」に咲く