——無名の隊士・吉村貫一郎の真摯な生涯と彼を取り巻く人間ドラマとして新選組を描いた『壬生義士伝(みぶぎしでん)』。続いて、がらりと趣を変えて島原芸妓・糸里ら女性の視線を通して芹沢鴨暗殺の謎に迫る『輪違屋糸里(わちがいやいとさと)』。そして今作『一刀斎夢録』では三番隊長で最強とも謳われる斎藤一(はじめ)が見た、幕末維新から西南戦争までの歴史が物語られます。浅田版新選組三部作の掉尾にあたり斎藤一という語り手を選ばれたのはなぜでしょうか。
浅田 新選組を総括してやろう、と考えるとこれまでのように周辺の人物たちに語らせたり、バイサイダーの物語から説き起こすのではなく、新選組にどっぷりと浸かった人物の視線でなくてはなりませんでした。なかでも斎藤一は謎の多い人物で、出自なども不明の点が多い。特別な思想の持ち主でもなければ格別の教育を受けたわけでもない。剣を取ったら何も残らないという、新選組のある側面を象徴するような男です。
——その斎藤は、京都から江戸、甲州、会津と激戦の舞台を転戦しながらも生き延び、明治の世では巡査となります。西南戦争では警視庁抜刀隊の一員として九州に渡っていたのですね。
浅田 あらゆる一対一のスポーツにおいては、ハンデがない限りまず「番狂わせ」はありません。それは武道も同じ。なので新選組でも強いやつほど「斬られて死ぬ」ということがないのですね。永倉新八も大正まで生きて天寿を全うしますし、近藤勇は投降して処刑、土方歳三も自死同然に戦場で撃たれ、沖田総司は結核に倒れます。病を得ることもなかった斎藤一が幕末維新を生き延び、明治、大正と長らえたのは必然ともいえます。しかし、斬られない、負けないからこそ、常に「なぜ生きるのか、なぜ殺すのか」という命題を突きつけられていたと思います。
――多くの命を奪う斎藤は独特の人間観をもっています。
浅田 人は所詮、糞袋である。であるならば世の中からひとつでも多く糞袋を減らして何が悪い、という斎藤の理屈は自分自身に対する免罪符でもあります。
私が歴史小説を書く際に一貫して考えていることは、人間のあり方、思いというのは時代が違ったとしてもそう大差はないはずだということです。言葉遣いや社会の制度による考証さえしっかりしていれば、そこで描かれる考え方や心情は今の我々と共通しているものでしょう。幕末の人間だからといって、人を殺してもなんの罪悪感もおぼえないはずはない。
——坂本龍馬をはじめ実に多くの人を殺して生きながらえた斎藤一だからこそ語れることですね。
浅田 あらゆる歴史小説、時代小説においては生死の哲学を持ち込むのはタブーともいえます。いちいち「なぜ殺す」と考えていてはチャンバラになりませんから。そういう意味では『一刀斎夢録』という小説は、時代小説のタブーをもって新選組を総括するという試みでもあります。
——生死の哲学は、結末に近づくにつれ色濃くなり、西南の役の戦場に立った斎藤が思いも寄らぬ運命に遭遇することになる、夢幻的な場面に凝縮されているように思いました。
浅田 西郷隆盛蜂起の報(しら)せよりも九州派兵決定の日付が先だったり、西南戦争が抱える数多くの矛盾については昔から私なりの解釈をもっていました。つまり、日本軍の近代化推進を目的とした西郷と大久保の大芝居ではないかという仮想です。軍制整備のための壮大な演習だと考えると、多くの疑問点に解決がつくのです。でも裏付けはありませんから、あくまでも私の説。想像と推測で説を立てるとは、小説家にだけ許された醍醐味。私がことあるごとに「学者ではなく小説家になって良かった」と思うゆえんです。
——三部作を完成なさって、あらためて浅田さんにとっての新選組とはどのようなものでしょうか。
浅田 十代の頃からの新選組ファンで、はじめはその滅びの美学に惹かれるものがありましたが、四十年かけて付き合ってきた今では、何より人間ドラマとしての面白さに魅力を感じます。
——明治を隔てて斎藤一が冷静に新選組を振り返ってみせる言葉のなかには、現代のサラリーマンが読んでも思い当たる節がある含蓄に富んだフレーズがたくさんあります。
浅田 社会の形や組織もまた人間と同じくそうそう変わるものではないですから。現代にも斎藤のような男は案外いるでしょう、ニヒリストで内向的で、そのくせ仕事は人一倍できる。斎藤が近藤や土方と決定的に違うのは出世や名誉や金銭など人間らしい欲を持たないところですが、そんな男でも自らの出自については冷静でいられなかったりもする。私の書く新選組は、ヒーローとして仰ぎ見るというよりはもっと近しい人々、人間臭さに溢れる男たちであると思っています。 (本の話 2011年1月号より)