一家に遊女も寝たり萩と月
(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)
新潟から富山への道は、北陸一の難所と言われる親不知子不知(おやしらずこしらず)を越えなければならない。しかも、行く手には日本海へ注ぐ川が幾筋も横たわり、芭蕉はつまずいて派手に転んだのか、衣服をびしょ濡れにしてしまった。
ようやくたどり着いた市振の宿で、新潟から伊勢に詣でるという隣室の遊女から「旅の道連れにしてくれないか」と頼み込まれる一幕があった。不憫とは思いつつも断った芭蕉は、こう詠んでいる。
一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
不思議な巡り合わせで宿をともにした遊女と自らの取り合わせを「萩と月」に喩えた名句。しかし、芭蕉の創作という指摘も多い。曾良の日記に記述が無いことや、新潟から伊勢に出る場合には富山を通らず長野から中山道へ抜けるのが普通だといった理由があげられている。
ただ、ここでは別の観点で注目してみたい――物語の舞台に変化が見られることである。
女性だけであってもお伊勢参りに行くというのは、一種の都市型文化と言えるだろう。江戸から多くの人が伊勢に詣でたのは1650年で、その後約60年周期で第ブームが起きている。「おくのほそ道」の刊行から3年後の1705年には50日間で362万人が参拝したものの、ブームのひろがりは江戸まで。次にブームが起きた1771年には影響は全国に及んだが、それでも東北地方だけは例外であったという。逆説的に言えば、親不知子不知を過ぎ、伊勢参りが現れたことをもって、「みちのく」を脱したと考えることも出来るのである。
そしてまた、季節も巡った。
<耳に触れていまだ目に見ぬ境、若(もし)生て帰らば>(話に聞くばかりで、まだ見たことのない世界を旅して、無事に帰ってくることで出来れば、どれほど幸せだろう)
と決死の思いをふるった旅立ちから4カ月。今は萩や月の美しさが思われる初秋となった。物語も、そろそろ終局に近づいて来たのである。
長旅の疲れに体調を崩した芭蕉だが、多くの知己の待つ金沢までは、あと少し。木曾義仲も越えた倶利伽羅峠を、加賀の国目指して登っていく。